概要沿革

開山から四百年

公春院の正式名称は「 まんかいさん こうしゅんいん せんにち 」と申します。

当院が開かれたのは、今から400年程前、慶長19年(1614)10月に晏清満海大行者(寛永4年6月25日示寂)により修験者の僧坊(修験者が寝泊まりする宿)として建立され、延宝年間に当院三世超連社岳誉唯称上人梵冏和尚によって浄土宗に改宗されました。「千日寺」という寺号は開山満海大行者が比叡山での千日回峰行を満行したことに由来すると伝えられています。

以降、下谷通新町公春院として現在に至ります。江戸中期の「明和の大火」(1772)により延焼したとみられ、縁起などは焼失してしまいましたが、震災戦災は免れ、寛延2年(1749)以降の過去帳をはじめとしていくつかの寺宝を現在に残しており、公春院の歴史を垣間見ることが出来ます。

現在も浄土宗念仏道場として教化につとめております。

概要

名称

まんかいさん こうしゅんいん せんにち

所在地

〒116-0003

東京都荒川区南千住1丁目32−9

電話番号 03-3801-2942

FAX 03-3805-9526

電話番号 03-3801-2942  

本尊

阿弥陀仏(阿弥陀如来坐像)

宗旨《浄土宗》

承安五年(1175)宗祖法然上人(源空)(1133~1212)により立教開宗されました。 お釈迦様がお説きになった、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経をよりどころとして、 阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名をお称えして、人格を高め社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、お浄土に生まれることを願う信仰です。

近世に至るまでの公春院

江戸

江戸時代、公春院は浄土宗の准別格寺院として栄えました。境内に稲荷社や霊神社があり、合わせて六反歩ほどの田畑を有していました。

また念仏講(檀信徒によるお 念仏をお唱えする集まり)があり、日々お念仏の声が絶えませんでした。

明治~昭和

当山第二十二世麻上普静上人が明治十年(1877)より西国三十三観音を巡礼し、 同十八年(1885)には三十三観音像写しの刻造と供に観音堂が建立されました。以来、「虫封じ」の観音様として親しまれていました。

関東大震災での火災には免れたものの本堂、観音堂ともに傾き、昭和十四年に現本堂落成、如意輪観音及び西国三十三観音は本堂の左脇陣に安置されました。

第二次世界大戦でも戦火を免れたものの、農地解放により寺領を多く失い縮小することとなりました。

明治~平成

平成二十年には現客殿庫裏が完成、平成二十三年に本堂及び書院の土台を修復し、現在に至ります。

証拠の松

公春院の境内に入ってすぐ左の角に大きな松がありました。昭和9年に枯死したため伐採され、残念ながら今はその跡さえありません。明治42年頃撮影の写真が残っているだけです。

その大きさは、周囲はおよそ4メートル、高さ14メートルで樹齢は優に500年を超すものであったといいます。

幕府提出書類『寺社書上』に「境内南角大木之松一本有之候。先年新地御改之節、松之御様子御見分被遊新地に無之由に、而御改相済申候。其節より右之松、証拠の松と申伝候。」文化8年(1811)と書き記しており、寺域について争いが立ったとき、このお寺の古いことの証拠になったため「証拠の松」といわれていました。十方庵敬順『遊歴雑記』(文化11年1814)によると東武三十六名松の一つでもありました。

また、徳川歴代将軍が三河島方面狩猟の際、鷹が鶴を捕らえて落下したのが大抵この辺で、この松を便りに捜索したといわれ「目当ての松」、また将軍秀忠公がこの地に鷹狩りした時、一羽の鷹が梢にとまったので「鷹止めの松」ともいわれていました。