寺の歴史

開山から四百年

開山は晏清満海大行者(寛永四年1627示寂)で、修験者の僧坊として建立され、延宝年間に当院三世円連社岳誉唯称上人梵冏和尚によって浄土宗の一院となりました。以降、下谷通新町公春院として現在に至ります。江戸中期の火災により縁起などは焼失してしまいましたが、震災戦災は免れ、寛延二年(1749)以降の過去帳をはじめとしていくつかの寺宝を現在にのこしており、公春院の歴史を垣間見ることが出来ます。現在も浄土宗念仏道場として教化につとめております。

近世に至るまでの公春院

江戸

江戸時代、公春院は浄土宗の准別格寺院として栄えました。境内に稲荷社や霊神社があり、合わせて六反歩ほどの田畑を有していました。また念仏講(檀信徒によるお 念仏をお唱えする集まり)があり、日々お念仏の声が絶えませんでした。

明治~昭和

明治十年(1877)題二十二世麻上普静上人により関東大震災での火災には免れたものの本堂、観音堂ともに傾き、昭和十四年に現本堂落成、如意輪観音及び西国三十三観音は本堂の左脇陣に安置されました。 第二次世界大戦でも戦火を免れたものの、農地解放により寺領を多く失い縮小することとなりました。

昭和~平成

平成二十年には現客殿庫裏が完成、平成二十三に本堂及び書院の土台を修復し、現在に至ります。

証拠の松

公春院の境内に入ってすぐ左の角に大きな松がありました。昭和九年に枯死したため伐採され、残念ながら今はその跡さえありません。明治四十二年頃撮影の写真が残っているだけです。 その大きさは、周囲はおよそ四メートル、高さ十四メートルで樹齢は優に五百年を超すものであったといいます。 寺域について争いが立ったとき、このお寺の古いことの証拠になったため「証拠の松」といわれ、東武三十六名松の一つでもありました。 また、徳川歴代将軍が三河島方面狩猟の際、鷹が鶴を捕らえて落下したのが大抵この辺で、この松を便りに捜索したといわれ「目当ての松」、また将軍秀忠公がこの地に狩した時、一羽の鷹が梢にとまったので「鷹止めの松」ともいわれていました。

西国三十三観音

 公春院の本堂内向かって左側に如意輪観音が安置されています。周りに三十三体の観音様を従えており、それらは西国三十三観音の写しとなっています。
 三十三観音は、明治十年に第二十二世麻上晋静上人が檀信徒と共に日数千日を期して西国を回り刻造したもので、明治十八年には観音堂を建ててその堂内に安置し、祈願法要が行われていました。
 観音様は現世利益の菩薩として信仰されており、公春院の観音様をお参りすることで、西国三十三観音すべてを巡礼したと同じご利益があるといわれています。また虫封じの観音様としても知られていました。

文化財

紙本着色仏涅槃図

 涅槃図とは、多くの弟子や動物たちが悲しむ中で、お釈迦様が沙羅双樹の下に、頭北、西面、右脇下して身を横たえ、入滅しようとする姿を描いたものです。
 銘によると、石上文三が今井邦幹の援助を受けて、文政十年(1827)に絵を完成させたとされています。
 当院蔵明治三十三年の「公春院財産目録」には、この涅槃図が公春院に持ち込まれたのは、幕末の文久三年(1863)で、檀家の村上弥一の寄進によると記されています。

太鼓

 公春院の本堂内に置かれています。
 胴内の銘文によると、天明七年(1787)二月に、現在の京都市三条東山区にあった天部村の職人、橋村利右衛門が造ったものとされています。  同じく明治三十三年「公春院財産目録」によると、明治二十一年に双盤講によって寄付されたものとされています。

手水鉢

 公春院境内の墓地入り口左側にあります。
 造立年代は銘文から寛文十年(1670)五月十八日であることがわかり、現在確認されているなかで、荒川区内で最古の手水鉢と考えられています。
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